「TV-Watch」2001年3月分

 わたしが見たテレビ番組の感想を適当に掲載していきます。雰囲気としては、喫茶店の隅で仲間が集まり、見たばかりの番組をネタにして、勝手な放言をしているという感じです。読んだ人は、メールなどで反論をよこしたりしないようにしてください。ただし、事実誤認があれば、それだけは指摘に応じて訂正するつもりです。それ以外のクレームはいっさい受けつけません。
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 2001/03/03 (Sat)

「無敵王トライゼノン」TBSテレビ 毎週土曜日17時30分〜18時
 気のせいか、冴の発声する「艦長」が、正しく「浣腸」イントネーションになっていたように思えた。意図的にそうしたのなら、この配慮はなかなかのものである。高く評価したい。
 ところで、先週の「トライゼノン」、いくつか説明ぜりふがあって、気になった。ひっかかったのは、以下の3つかな。
 A.「いくら真空中でビームが減衰しないといっても、この距離で仕掛けてくるか」
 B.「うまい。ロケットアンカーをスラスターバーニア代わりにするとは」
 C.「超遠距離射撃用の誤差修正データが足りないんだ」
 A、Bは、典型的な説明ぜりふの例である。こういうせりふがあった場合、責任を負うのは絵コンテ段階ということになる。シナリオライターは関係ない。ライターは自前の絵を持っていないから、こういう場面があり、それを解説できる設定を有していたら、必ずこういうせりふを書く。また、書いておいてくれないとまずい(こともある)。このせりふを受け取った絵コンテ担当者は、このうちの絵で説明できる部分を絵で表現し、せりふの中の説明部分を削る。そうしなくてはいけない。
 もっとも、Aに関しては、表現しづらいので、絵で表現する必要はない。そのまませりふをカットする。
 「この距離で撃ってきた……(唖然)」
 程度で十分。
 Bは、すでに絵で完璧に説明されているところを、わざわざせりふでだめ押しをしている。これはまるごと要らない。入れるとしたら、
 「ちっ、うまい!」
 ってとこかな。わたしとしては、うまくやられたことについて、くやしがらせたい。
 Cは微妙である。当たらなかった言い訳を冴がしている。軍人の言い訳であるから、こういう言いまわしになっていても、さほどおかしくはない。ただ、リズムがひじょうに悪いだけだ。
 「誤差修正データが足りーん!」
 と、冴が逆切れする演出がいいような気がする。超遠距離射撃であることをどうしても視聴者に教えたいのなら、撃つ前のせりふで、さりげなく伝えておくべきであろう。
 以上、いまさらだが、「浣腸」のことだけ書くのもさびしいので、先週ぶんのネタをつけ加えておいた。どうでもいいおまけである。
 あと、敵戦闘機の方向制御に、それらしき噴射がないのも残念だね。バーニアの噴射が入ると、宇宙空間らしさが、すごくでてくるんだけど。

 2001/03/04 (Sun)

「ドイツ夢街道〜王と皇帝の道」テレビ朝日 14時〜15時25分
 マインツからレーゲンスブルクまで、ザールブルグ、ヴェルツブルクといった都市、町と、それをつなぐ街道をレポーターが旅していく。レポーターは星野知子さんである。わたしの大学、学部の後輩だ。本人はぜんぜん知らないんだけど、わたしは知っている。この手の情報は、ちゃんと確保しておく。それがセオリーだ(なんの?)。
 番組は、タレントの紀行ものとしては例外的に気分よく仕上がっている。星野さんが要所要所を自転車で移動しているところが、とくにいい。ローカルだが、ひじょうにきめ細かいレポートが展開され、この手の番組につきものの、退屈な自己満足的現地体験というものがいっさいない。歴史、風景、人びとを丁寧に描写し、かの地の魅力をきちんと伝えている。自然保護やらなんたらといった説教臭が、わずかながら漂っているけど、これはもうテレビ屋の病気であるから、どうしようもない。むしろ、この程度なら許せる範囲だろう。しかし、カール大帝って、たいしたことないね。中国歴代皇帝の権力、財産、業績に比べたら、大帝のそれなんてないに等しい。短い運河ひとつ、まともに掘れないんだもん。中世ヨーロッパがいかに文明的に後進国であったのかが、よく理解できた。

 2001/03/04 (Sun)

「NHKスペシャル 問われた危機管理〜650万本のタイヤリコール」NHK総合 21時〜21時50分
 ブリヂストンの子会社、ファイヤストーンのつくったタイヤが、欠陥疑惑を受けた。フォードエクスプローラに装着されていた同社のタイヤが、気温の高い日の高速走行でつぎつぎとバーストし、多くの死者をだした。有名な話である。このとき、フォードとファイヤーストーン(ブリヂストン)のとった処置に大きな差があった。フォードはアメリカ式を貫き、ファイヤストーンは日本式の誠意の示し方を打ちだした。それが、後の両者の立場に多大な影響を与えた。この番組は、その過程をレポートしている。
 自分の責任で事故を起こしても、アメリカでは謝罪をするなと言われている。先日起きた原潜による教育実習船事故の艦長も、当初はその方針で日本側に対応していた。が、この傾向が少しずつ変化してきている。いくつかの州では、事故後の謝罪を、裁判での責任判断に用いないという法律を制定しはじめていると聞く。しかし、それは法律の上での話で、アメリカ市民の感情、メンタリティに、まだそういった傾向は見られていない。それが、このレポートでもあらわになる。原因不明のままでの謝罪も含めて、日本式に徹したファイヤストーンは、アメリカのメディアによって徹底的に叩かれ、非難される。これって、相手が日系企業だという人種的偏見もあるんだろうね。アメリカは、人種差別を撤廃したと言っているけど、それは大嘘である。いまに至っても東洋人ははっきりと蔑視されている。実習船沈没事故で、アメリカのBBSに日本を罵倒する書きこみが多くあがったらしいが、これも根は同じだ。こういうときにかれらの本性、本音が大きくあらわれる。本当に日本と日本の文化を高く評価しているアメリカ人は、アニメおたくだけであろう。それ以外の連中は、そもそも日本と日本人が嫌いなのだ。そのことを常に念頭に置いて、日本人はアメリカ社会と対峙しなければならない。しょせんはキリスト教に支配された白人社会。異教徒の黄色い人種は、人間以下の存在なのである。

 *再放送情報

「NHKスペシャル エネルギーシフト(1) 電力革命がはじまったヨーロッパ・市民の選択」3/5 NHK総合 24時15分〜25時5分
「NHKスペシャル エネルギーシフト(2) クルマが変わる世界が変わる」」3/6 NHK総合 24時15分〜25時5分

 2001/03/05 (Mon)

「Dr.リンにきいてみて!」テレビ東京 毎週月曜日18時30分〜19時
 アニメの新番組。すっげえ仕上がり。せりふと口は合わない。デッサンはめちゃくちゃ。演出もばらばら。第1回でこれとはいい度胸だね。しかも、タイトルがタイトルである。風水が主題になっているところをみると、「Dr.リン」というのは同じ「Dr.」を名前の頭につけている、あの某さんをまねたものなんだろうか。しかし、まねるに事欠いて、この名前とはね。Dr.某さん、笑わせてくれる人である。先日もテレビにでて、とんでもないことを言っていた。「日本の首都は、400年ごとに場所を移していて、いまも、そのセオリーどおり首都移転の話がでている」んだってさ。1200年前が京都、800年前が鎌倉、400年前が江戸なんだとか。おいおいである。何をでたらめ言っているんだろう。基本的に日本の首都は京都からほとんど移っていない。平安京ができてから、そのままである。1180年6月、平清盛が福原に都を移したが、まともに造都もできず、同年の11月にまた都を京都に戻している。首都の移転があったとむりやり主張するとなれば、わたしにはそれくらいしか思いつかない。言うまでもなく、頼朝が鎌倉にひらいたのは幕府である。首都ではない。これに対して、「いや、Dr.某氏が首都と呼んでいるのは、日本を実質的に支配した場所のことで、幕府もそれに含められる」と言ったら、どうなるのか? どうにもならない。室町幕府(足利幕府)がある。室町幕府の政庁は京都北小路室町に置かれ、花の御所と呼ばれていたのは周知のことだ。幕府を入れるのなら、これも入れなくてはならない。そうなると、尊氏の新政権樹立の時点(1336年)で144年目、義満の花の御所設営(1378年)にしても186年目になり、まるで400年にはならない。しかも、さらにそのあとには、関白秀吉の大坂というのもでてくる。これは幕府じゃないけど、実質上、日本を支配した場所である。幕府を強引に首都扱いするなら、これも入れておかないとねえ。って、それならすごく短かったけど、信長の安土もそうじゃないか。……と、きりがなくなる。これで、Dr.某の見解がどのようなものなのか、よくわかることであろう。
 また、明治の東京遷都だが、これは正式な遷都ではないという説が厳然と存在する。形式的に、いま天皇は東京におられるが、これは行幸のせいだという説である。ちょっと京都から東京に一時的にきていただいているだけなのだ。だから、京都にはちゃんと正式の御所がある。歴史書にも、きっぱり「明治天皇の東京行幸」と書いてある。この説を採用したら、日本の首都は1200年前から京都である。一度も移っていないことになる。ま、これは本当に形式的なものだし、いまの日本の首都は世界的に東京として認知されているから、この説はあまり強調はしない。でも、Dr.某の言う「日本の首都が400年ごとに移転している」というのは、大間違いである。これははっきりとしている。要するに、Dr.某は日本史の基礎も知らない、とーってもおもしろい人なのだ。そういう人が、なんら根拠のない珍説をテレビなどで語り、風水術なるものをもっともらしく世間に広めようとしている。笑うしかない。また、それに乗っかって、金を稼ごうとする怪しい人たちも、あちこちで蠢いている(でなきゃ、こんなアニメつくらない)。日本は、しみじみと魑魅魍魎の世界なんだなあ。ああ、怖い。

 2001/03/06 (Tue)

「機巧奇傳 ヒヲウ戦記」NHK衛星第2 毎週火曜日18時30分〜19時
 つぎに、この作品について何かを書くとしたら、最終回になるだろうと考えていた。途中で単独のエピソードに対して評価を書くほどすぐれた作品でもないし、また、いちいち欠点をあげつらうほど瑕疵だらけというわけでもなかったからだ。前にも書いたが、「言及がないのは並みの作品」というやつだ。いまのところ「ヒヲウ戦記」には可もなく、不可もないのである。
 しかし、ちょっと、ある事情があり、この時点で、この作品に関するわたしの見解をいったん示しておくことにした。個人的な事情であるから、理由は述べないが、これまでに、この作品を見て感じてきたことをざっと記しておく。なお、これは最終的な評価ではない。作品はまだつづいていて、完結していないからだ。連続テレビアニメは、予定されたすべてのエピソードが放送され、きちんと作品が完結してから評価がでる。これは当然のことだ。10章構成の小説の第8章がよかったから、この小説は傑作なんてことには絶対にならない。その1章だけがよくできていても、それに至るまでが退屈かつ凡庸なエピソード、構成の連続であったら、トータルとして、やはりその作品には高い評価が与えられない。26話のアニメは26話全体でひとつの作品である。13話のアニメは13話全体で、6話のアニメは6話全体でひとつの作品として評価する。それが一所懸命つくられた映像作品に対する礼儀だ。わたしは、いつもそうするようにつとめている。
 前置きが少し長くなった。これくらいにして、本題に移ろう。
 まずは、ふだんしないことからやってみる。「ヒヲウ戦記」の本質を一語で言いあらわしてみるのだ。その言葉は「偽善」である。少年ヒヲウは、やたら「人を殺すのはいやだ」と言い散らす。では、人以外なら殺してもいいと考えているのだろうか? どのような状況でも、人を殺すのがいやだと叫ぶだけで、すべてのトラブルが解決すると思いこんでいるのだろうか? そうではあるまい。現実にきょうの放送では、仲間と殴り合い(噛みつき攻撃まで入っていた)の喧嘩をしている。喧嘩は戦争の一形態だ。自己保存の本能、自己正当化の本能から、喧嘩は発生する。戦争も基本的には同じだ。やることは敵戦力の除去である。口喧嘩は言葉を封殺する。それが戦力だから。取っ組み合いの喧嘩では、体力を損耗させる。それが戦力だから。相手が武器を手にしたときは、傷つけたり、命を奪う。それが戦力だから。人間は動物の一種であり、その行動の多くを理性ではなく本能が支配している。これは、いうまでもない事実だ。動物が同じ種類の動物を殺さないというのは嘘で、どの動物も条件さえ合致すれば、仲間を殺す。メスを独占するために、他のオスを殺すケースも少なくない。先日、放送していたヒグマの番組(NHKスペシャル)では、メスを確保するために、オスがメスの連れている子熊を殺すという例を紹介していた。このときのヒグマは。自分自身のみの子孫を残そうとする本能に従っているだけだ。動物とは、こういうものであり、そこに倫理の入りこむ余地は毫もない(動物がそういう行動をとらなくなったら、その動物は種として滅ぶ。これも既知の原理)。実際の話、この作品の構成者自身も、ヒヲウが口にしているきれいごとが世間に通じるなどとはかけらも信じていないはずだ(信じていたら、それはおめでたすぎる)。しかし、この作品において、ヒヲウはところかまわず「人殺しは嫌いだ」とわめく。まったく意味もなく、叫ぶ。これが「偽善」である。
 そもそも子供は、生命を奪うのが好きだ。虫を捕まえ、ばらばらにする。池の鯉に石をぶつけ、アリを集めて瓶に入れ、それを2B弾で蒸し焼きにする。瓶の蓋をあけると、蟻酸の強い匂いがあたりにぷーんと広がっていく。トカゲがいると、その腹をボンナイフで裂き、何を食べているのかを調べる。蛙の皮を剥ぎ、それを餌にしてザリガニを釣る。釣ったザリガニは、殺して捨てる。より本能に忠実に行動する人間。それが子供である。それが成長し、社会構造に組みこまれていくのと同時に、倫理やルールを叩きこまれ、むやみに生物を殺さないようになっていく。そういう過程を無視して、子供にわざわざ「人殺しはいやだ」と叫びつづけさせるというのは、まさしく「偽善」以外の何ものでもない。
 すぐれた作家は、常に偽善を排している。偽善は、作品をスポイルし、その品格を下げる。黒澤明監督の「七人の侍」にでてくる百姓は、落武者を狩り、その身ぐるみを剥いで、生計の足しにしていた。これが権力者や野武士たちに虐げられているはずの百姓の本性である。黒澤監督は、その本性を隠すことなく描き、百姓とはこういう連中だと菊千代に叫ばせる。その画面に、偽善はない。
 日本で非業の死を遂げた英国人女性ルーシー・ブラックマンの父親は、数日前、こう語った。「わたしは死刑廃止論者だが、娘を殺した犯人は死刑にしてほしいと願っている」と。わたしは、その無邪気さに、思わず笑ってしまった。偽善者が、これほどあからさまに真意を吐露することは珍しい。この父親は、娘が殺されるまでは明らかに偽善者であった。娘が殺されてはじめて、自分に対して正直になった。ふつうは、体面というものがあるから、無理しても偽善者を装おうとする。が、かれはそうしなかった。さすがは白人。なかなかのしたたかかさである。
 ヒヲウと同じように、人が常時殺し合う環境にあって、そういった行為を嫌う少女を主人公に据えているアニメがある。「犬夜叉」だ。ヒロインのかごめは、人が死ぬのを嫌う。当然だろう。平和な現代の日本でぬくぬくと過ごしてきた若者の、これは偽らざる反応である。そのかごめは、しかし、自分が危うくなれば、犬夜叉の力に頼る。そして、その力で妖怪が消滅するのをごく自然に受け入れる。今週は「嘘も方便」という言い訳ですら、やすやすと受け入れていた。が、それでいながら、死を嫌う現代少女の本質はさりげなく維持させている。エンターテインメント性を確実に保った上でのこの人間描写力には心底、驚嘆する。ここには、もちろん「人殺しはいやだ」などと、ただ叫ばせるだけの偽善は存在しない。きわめて正直な少女の反応を、素直かつ鮮やかに、鋭く描いている。その才能は本当にすさまじい。高橋留美子さん、恐るべしである。彼女の才能と「ヒヲウ」の構成者のそれの差、愕然とするほどに大きい。激戦の少年週刊誌で、ずっとトップを維持している人の才能というのは、これほどまでにも深いのだ。オリジナルアニメが昨今、圧倒されているのもむべなるかなである。才能にこれほどの落差があっては、いかんともしがたい。
 以上、「ヒヲウ戦記」に関して、いま現在のわたしの評価を簡単に記した。この作品、いつか「偽善」から脱するかもしれないと思いながら、わたしは見つづけている。でも、きっと無理なんだろうな。そんな気がする。

 2001/03/09 (Fri)

「ドキュメント地球時間 ヘルクラネウム・よみがえる二千年前のリゾート都市」NHK教育 毎週金曜日22時〜22時45分
 2000年前、ベズビオ火山の噴火で潰滅的な被害を蒙った古代都市は、当然のことだけど、ポンペイだけではない。ローマ人のリゾート地であったヘルクラネウムも、とつぜんの噴火に町全体が火山灰の下に埋もれ、地上から忽然と消えてしまった都市である。そこの発掘が近年進み、いろいろと成果がでてきた。この番組は、それをレポートしている。
 この遺跡、とにかく保存状態がいい。街路なんか、当時そのままといっていいほど、きれいに残っている。もっとも、熔岩の硬い岩盤に覆われてしまった地帯は、その上に新しい町が築かれてしまい、いまとなっては発掘が不可能だ。それ以外の場所は、着々と発掘が進められ、町なみが復元されつつある。その中でも最大の発見は、古代の図書館「パピルス荘」を見つけたこと。この図書館は250年前(1738年)の発掘ブームのときに発見され、その後、行方不明になっていた遺跡である。それが1984年に再発見され、調査が再開された。パピルス荘に収蔵されていたパピルス文書は、すべて火砕流で炭化してしまっているので、簡単には解読することができない。それを最新のテクノロジーで読みとり、内容を解読していく(言語はギリシャ語)。たいへんな作業だね。ほかにも火砕流から逃げようとした人びとが海岸の洞窟で息絶え、それが折り重なる白骨となって発見された様子とか、レポートは、けっこう盛りだくさんである。また、発見、発掘がおこなわれてきた一方で、発掘された遺跡の風化とか、作業中断で未発掘のまま放置されてしまった遺跡とか、問題もごっそりと山積している。おまけにベズビオ山の再噴火の可能性などもあり、この遺跡の行く末は、ぜんぜん明るくない。過去の遺産を保存していくのは楽じゃないね。バーミヤンのように宗教がからんでいたりしなくても、とってもむずかしいのである。

 2001/03/10 (Sat)

「真剣10代 しゃべり場」NHK教育 毎週土曜日18時30分〜19時10分
 10代の男女を集めて、ひとつのテーマを討論する番組(らしい)。今回のゲストは庵野秀明監督で、テーマは「1人でいるってダメですか?」。これ、つまるところ、討論のための討論でしかないね。そもそもこのテーマは個人の嗜好の問題であって、討論するに値しないことだと思う。ひとりが好きなやつはひとりでいればいいし、そうでないやつはみんなで固まっていればいい。それだけじゃない。これで討論できるのなら「ワカメが嫌いってダメですか?」というテーマでだって討論ができてしまうよ(注・サザエさんの妹のことではない)。と、思って見ていたら、いきなりテーマがワープして、べつの話になってしまった(そういうテーマを持ちだす人の歪んだ性格に関する雑談。討論ではない)。番組の狙いはこういう展開を得ることにあったようだね。ま、このレベル(小学校の学級会くらい)の連中を集めたら、こういうものにならざるをえないんだろうな。しかし、庵野監督は性格的にやさしい。言葉のかけ方とか、フォローの仕方とか、感心してしまった。もしかしたら、すごくいい小学校の先生になれたかもしれない。そういう部分を垣間見ることができたのが、いちばんの収穫。
 ところで、庵野監督の眼鏡、鶴瓶師匠のそれとメタルテンプルのデザインが似ている。同じメーカーのものなのかしらん。それが、とても気になってしまった。

 2001/03/11 (Sun)

「WBA世界スーパーフライ級タイトルマッチ レオ・ガメス vs セレス小林」日本テレビ 15時〜16時25分
 1ラウンドからの積極的なボディ攻撃、いいねえ。あのぽこんとふくらんだガメス選手のボディは絶好の打撃目標である。そこを逃さず攻めていったのがけっこう効いたという感じ。それでも10ラウンドかかったんだから、さすがは4階級制覇の名チャンピオン。37歳でも、相当にタフである。
 なお、昨年8月の世界戦で、わたしはTV Watchに、こう書いてしまった。
「小林選手は、これ以上を望んではいけない。健闘したとはいえ、小林選手の力量は間違いなく日本チャンプ止まりなのである。そういう選手がフロックで世界チャンピオンになってはいけない。あとに待つのは悲劇だけだ。天才世界チャンピオン相手に、すばらしい試合をした。それを最高の思い出にして、小林選手は引退すべきであろう」
 謹んで謝罪し、意見を撤回する。申し訳ない。セレス小林選手、みごとな新世界チャンピオンだ。1回くらいは防衛してちょうだいね。って、ちょっと反省が浅いな。へこへこ。  

付記。

 夜、日テレの「スポーツうるぐす」に小林選手がゲスト出演していて、「結婚する前、失うものが何もない者ほど強いやつはいないと思っていたが、それは違っていた。結婚し、子供ができて守るべきものを持ったとき、人間は絶対に強くなるということがわかった」と語っていたのが印象的だった。これは名言として、記録されておかなくてはいけない言葉だね。わたしは、ここに書いて記録しておく。

 2001/03/11 (Sun)

「NHKスペシャル 下請けではあきまへん〜東大阪 ITにかける町工場」NHK総合 21時〜21時50分
 ものつくり大学などができる一方で、市井の町工場は、不況のあおりをくらい、みな倒産の危機に陥っている。この件に関しては大田区の町工場が有名だが、東大阪にも、同じような町がある。その危機状況から脱する方策として、町工場の大将たちが選んだ手段がインターネットによる共同受注システム。でも、これもむずかしいよね。「インターネットでホームページつくりました。おお、注文が殺到」なんてことには、まずならない。このTakachiho Notesだって、あちこちで宣伝しまくったのに、まだ10万ヒットに達していない(まもなく1周年だというのに)。というわけで、こういう試みの帰趨、すごく気になってしまう。しかし、予想に反して(?)、番組の中では、わりとハッピーに事が運んでいく。仕事もきたし、新製品の開発にも成功する。ただし、これはいま現在の話ではない。取材は少し前におこなわれたものだ。そこで、その後の経過を見ようと思い、そのホームページに行こうとしたが、どう検索しても当該ページが見つけられない。その町工場がつくった団体(「HIT」という名称)の記事が載っているサイトはあったけど、団体そのもののサイトを発見できないのだ。NHKもURLくらい画面にだしてくれよ。ここまで会社名なんかをだして紹介しているんだから、それくらいだしても宣伝にはならないだろ。

 2001/03/11 (Sun)

「日曜スペシャル がんを生きぬく」NHK衛星第1 毎週日曜日22時〜23時
 気功法などを取り入れたことで知られている帯津三敬病院の癌治療法を紹介している。癌の種類はさまざま。何人かの患者の闘病記録を通して、癌との戦いを、静かに描いている。自分に得心の行くまであらゆる治療法を試し(すごく怪しいものもある)、それで気がすんで、末期患者が自身の運命を受け入れていく過程が本当に淡々と画面の上を流れていく。病院は、患者がやりたい治療法のすべてを認め、その実行に手を貸す。希望の芽を絶対につもうとしない。こういう対処法もあるんだねえ。映像に気負った部分なし。派手な演出なし。大仰な音楽なし。ある患者は力尽きてこの世を去り、ある患者は治療行為を打ち切り、病院を離れて家族のもとに戻る。いい構成だ。こういうつくり方は、まさしくNHKにしかできないもの。スポンサーがある環境では、とても放送できない。しみじみと見てしまったよ。

 2001/03/11 (Sun)

「新アジア発見」NHK総合 毎週日曜日23時10分〜23時35分
 アジアのIT先進国、シンガポールの女性(夫に先立たれたおかあさん)が、仕事を得るためにボランティア・グループが配っている中古パソコンをもらい、パソコンスキルを身につけようとする奮闘記。しかし、疑問がひとつ。無料でもらってきたパソコンを起動すると、Windowsが起動する。ワープロソフトも動く。ライセンス、どうなっているんだろう。これ、ひじょうに気になる。この手の中古パソコン(ハードも、ソフトもマニュアルが存在していない状態で渡される)にプリインストールというのは納得できない。マイクロソフトの見解を聞いてみたいな。

 2001/03/11 (Sun)

「炎の男達〜出雲たたら伝承物語」フジテレビ 26時40分〜28時
 すばらしい番組。これを見逃した人、悔やんでほしい。制作した山陰中央テレビ放送、えらい。これ1本で、たたら製鉄のすべてがわかる。歴史、砂鉄、炭、製鉄技術、そして、完成した玉鋼によってつくられる日本刀の鍛錬。そういったことに関わっている人たちが、みな余すところなく紹介され、その思想、その技法が映像として、きちんと記録されている。けれん味を排した構成は、実に鮮やかに、ひとつひとつのシーンを、それはもう美しく形成している。民放制作ながら、その内容、その演出は、あのNHKスペシャルをも陵駕していると言っていいだろう。やれば、できるのである。わたしがフジテレビの編成局長なら、「HERO」と「SMAP×SMAP」をつぶして、ゴールデンタイムにこれを放送するね。本当にやったら、左遷されるかもしれないけど、それはそれで男の本懐だ。自身の地位を懸けても、より多くの人びとに見せる価値が、この作品にはある。心ある企業よ、日本の文化を支える志のかけらでも有しているのなら、この作品をぜひスポンサードしていただきたい。そして、もっとまともな時間に再放送させてもらいたい。現実的な枠は「ゴールデン洋画劇場」ってところかな。日本人なら、必ず一度は見ておかなくてはいけないドキュメンタリーだと思う。すごい時間帯だったが、なにはともあれ、フジテレビはよく放送してくれた。深く感謝する。でも、できれば途中のCMはカットしてほしかった。多すぎるよ。

 2001/03/12 (Mon)

「ETV2001 西洋館物語〜日本の建築技術はいかに進歩していったか(1) 煉瓦造りからの出発」NHK教育 月〜木 22時〜22時45分
 明治維新以降、日本に流れこんできた西洋館の建築技術。その進歩の流れを追った全2回シリーズのレポート。でも、タイトルを見ると、単に日本の建築技術が低かったというようにもとれてしまう。むろん、進歩したのは非木造の洋館建築技術だけである。その1回目は、建築技術を云々する前に、まず煉瓦をつくることからはじまったという話。日本で煉瓦をつくりはじめたのは、瓦職人である。たしかに「瓦」に「煉」をつけただけなんだもんね。って、そういうネタではない。
 で、煉瓦のあとはスレート。そのあとは大理石(国会議事堂)と素材の話題がつづき、1回目は終わった。いちばん興味深かったのは、スレートだね。岩を手で割って、厚さ6ミリのスレート素材に仕立てあげていく過程は、実におもしろい。安普請(謙遜ではない。本当の事実)の我が家には縁遠い素材ばかりだったんだけど、楽しく見ることができた。

 *再放送情報

「地球に乾杯 神の泉“黄龍”〜3400の池が輝く峡谷の美」3/14 NHK総合 23時〜23時50分(短縮版)
「プロジェクトX 挑戦者たち 幻の金堂・ゼロからの挑戦」3/15 NHK衛星第2 11時〜11時45分
「アメリカの20世紀(1)〜(2)」3/17〜28 NHK衛星第1 23時〜24時25分
「NHKスペシャル 問われた危機管理〜650万本のタイヤリコール」3/19 NHK総合 24時15分〜25時5分
「アメリカの20世紀(3)〜(4)」3/24〜25 NHK衛星第1 23時〜24時25分

 2001/03/12 (Mon)

「Dr.リンにきいてみて!」テレビ東京 毎週月曜日18時30分〜19時
 視聴中止。

 2001/03/15 (Thu)

「コメディー お江戸でござる」NHK総合 毎週木曜日20時〜20時45分
 前にも書いたと思うが、この番組のいちばんの楽しみは、杉浦日向子さんの考証評と江戸話である。今回は、江戸商家の結婚事情について。丁稚として奉公し、結婚できるのは番頭になってから。つまり、40歳すぎないと結婚できなかったという。しかも、結婚相手は店の主人が一方的に決める。自由恋愛などありえない。そして、もっとも重要なのは、この観念を男女ともに常識としていたということだ。わたしが時代劇を見ていて気になるのは、この部分……当時の人びとのメンタリティの描写である。これが失われると、作品の意味も、大きく損なわれてしまう。そもそもメンタリティは歴史の動向を決する大きな要素のひとつだ。現代の感覚で考えて「なぜ、この人はこのとき、こういう判断をしてしまったのだろう」と思う行動の裏に、当時のメンタリティが強く反映していることが少なからずある。平安時代の貴族。戦国時代の武将。戦前の政治家。かれらの意外な動き、決断の源に、このメンタリティの呪縛というものがはっきりと存在している。これを無視して、現代人のメンタリティで、当時の人びとの思想や行動を批判するメディアや評論家(+覇権主義国家)がいるが、これはもちろん大きな誤りだ。倫理、メンタリティは時代によって異なる。評価は常にその時代の倫理、メンタリティに則しておこなわれなくてはならない。それが歴史に学ぶということだ。ある作品の舞台を幕末とするのなら、いかにフィクションであっても、その時代の人びとのメンタリティを無視して創作するのは、できうる限り避けなくてはいけない。それができないのなら、その時代を使うのをやめる。それが創作者としての礼儀だ。そういう作品をつくりたいのなら、そういう作品にふさわしい時代を選べばすむ。知識も作法も持ち合わせていないのに、むりやり時代だけ借りてくる必要は、毫もない。
 友人に教わったエピソードに、こういうのがある。ある歴史家が日本史に詳しい知人と竜馬について話をしていたら、その時期の竜馬の行動について話が食い違ってしまった。そこで、その理由を調べてみたところ、相手の話の出典が司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」だったというエピソードだ。「歴史家の知人」というのは、素人としても、かなりのレベルの歴史通だったらしいが、それでも、そういう混同に陥る。司馬さんの書いたフィクションが、その人の裡で一般的な認識としての歴史的事実になってしまい、本来の歴史的事実のほうが異説になってしまっていたのである(わたしの友人談)。これほどに、すぐれたフィクションが与える影響というのは、大きい。
 それでも、こうやって史実と突き合わせて検証できる件については、さほど問題にはならないとわたしは思っている。小説がフィクションを書くのは当然のことで、それを(検証可能なのに)事実と混同してしまう側に非があることは明白だから。しかし、メンタリティは違う。メンタリティは、歴史的事実とは異なり、年表をチェックして即座にわかるというものではない。その時代の文献などにじっくりと浸り、当時の空気を吸うようにして史料を読みこまないと、理解できない。それゆえに、創作する者は、メンタリティの再現に心を砕いて、時代劇、時代小説の作品構築にあたる必要が生じる。2001年2月4日放送の「黒船が来た! 日米外交秘話 ある天才役人の驚くべき知性と勇気」で、「再現ドラマを現代とからめたたために、武士の妻のメンタリティが現代女性そのままになっているところ」をわたしが難じているのは、まさにそれだ。「機巧奇傳 ヒヲウ戦記」も、その部分がまったくできていない。時代考証者をつけるのなら、まずそこをきちんと押さえてもらうようにしなければだめである。でないと、物語以前に、描かれた時代そのものが視聴者や読者にまったく伝わらなくなってしまう(あるいは歪んだ形でのみ伝わっていってしまう)ことになる。杉浦さんの考証評は、そういう時代考証の不備を実に的確に、しかも、やんわりと指摘していく。その鮮やかな手ぎわを見るだけも、この番組には十分な価値がある。でも、もう少しギャグは洗練してほしいな。やはり、伊東四郎さんが抜けた穴は大きい。

 2001/03/16 (Fri)

「ドキュメント地球時間 米・刑務所が“ビジネス”に」NHK教育 毎週金曜日22時〜22時45分
 TBSで日曜日の深夜に放送されているCBSニュースなどでレポートは見ていたが、アメリカの刑務所のかなり多くが民間経営になっているという。刑務所経営は、すごく儲かるのだ。民間経営であるから、当然、コストダウンや受刑者管理等で問題がでてくる。週7日労働で、なおかつ食費も受刑者が支払うシステムというのは、やはり、びっくりしちゃう。番組内で紹介されていた仕事は、パソコンの組み立て。雇うほうにしてみれば、無断欠勤がなく、毎日必ず脇目も振らずに仕事をしてもらえるし、賃金も4ドル台とすごく安いってわけで、メリットだらけである。これなら、発展途上国とのコスト競争も可能になるね。でも、ここをでると、元受刑者には仕事がない。塀の外だと賃金が高くなるから、雇ってもらえなくなる、仕事がほしければ、罪を犯して、刑務所に戻る。なんか、すごくへんな状況が生じているなあ。それと、大盛況なのが、刑務所で使用されるグッズの見本市。これも、すごくへん。でも、おもしろい。トイレ、デスク付きのコンパクト監房(すごく狭い)は締切を守らない作家、漫画家用に出版社が拘束椅子とセットで購入してもいいんじゃないかな。いちばんほしいと思ったのは、スタンガンの新型とおぼしき、エアテーザー。電撃が数メートルの距離を飛び、相手を麻痺させる。これはいい。一般人でも購入可能なのだろうか。インターネットで検索してみよう。そのほかにも、からまったら全身かぎ裂きになり、600針は確実に縫うことになる有刺鉄線(2度からまるだけで大仁田選手を陵駕できる。FMWも採用すべきだ)とか、肛門の中までチェックできる金属スキャナなどを、販売担当者が実ににこやかに、TVショッピングよろしく売りこんでいる。これ、まじにテレコン・ワールドで扱ったらいいんじゃないかな。けっこう需要があると思うよ。

 追記。

 その後、インターネットで調べてみたら、エアテーザーは電撃が飛ぶのではなく、ワイヤーのついた2本の針(probe)が圧縮空気の力で飛び、それが相手のからだ(衣服の上からでもいいらしい)に触れたときに電気ショックが起きるという仕組みになっていることがわかった。構造的にみて、これは銃刀法に抵触する可能性が高いので、日本では使えないかもしれない。

 *再放送情報

「ETV2001 西洋館物語〜日本の建築技術はいかに進歩していったか(1)」3/21 NHK教育 25時15分〜26時
「ETV2001 西洋館物語〜日本の建築技術はいかに進歩していったか(2)」3/22 NHK教育 25時15分〜26時

 

 2001/03/18 (Sun)

「中央アジア大探険 遙かなる崑崙山脈・幻の山チョンムスターグに挑む!」テレビ朝日 14時〜15時25分
 中国、新疆ウイグル自治区の外れ、崑崙山脈の中にチョンムスターグという山がある。そこに早稲田大学山岳部のOB、現役混成登山隊が挑んだ記録。この山、存在している場所が場所だけに、登る前にその麓までたどりつくのがたいへん。とにかく、ひたすら遠い。しかも、タクラマカン砂漠越えなんてのもある。これだと、山麓にたどりつく途中だけで「シルクロード特番」数本ぶんくらいの映像が撮れてしまったんじゃないかな。でもって、当然のことだけど、登山隊はさまざまなトラブルに巻きこまれる。こういう環境が(ベテラン登山家なら)さほど登頂困難ではなさそうなチョンムスターグ(標高6962メートル)を幻の山にしていたのだろう。というわけで、第1キャンプについてから頂上までは、わりとあっけない。天候が崩れたため、アタック隊は1組で終わってしまったが、それでも登頂はあっさりと成功した。登山番組なのに、そのほとんどが前ふりのキャラバンって番組はとても珍しい。おかげで、番組自体の緊迫感も大幅に薄れてしまった。うーん、構成はもう少し工夫してほしかった。惜しい素材である。

 2001/03/18 (Sun)

「トーク3人の部屋」NHK衛星第1 22時〜22時45分(22時35分〜23時20分)
 4月1日からはじまる新番組の予告篇というか、サンプルというか、先行オンエアというか、そういうものらしい。20時30分に終わるはずのワールドカップ・スキージャンプが延びて、いきなり放送時間が35分も遅れた。これだから、衛星放送は油断がならない。
 で、内容はタイトルのとおり、3人のゲストによるトーキングである。今回のテーマは、ネットオークション。ゲストは、荒俣宏(日本SF作家クラブ会員)、江畑謙介(軍事評論家)、伊藤元重(東大教授)の3氏である。しゃべりの主体は、実際にネットオークションを利用されている荒俣さん。江畑さんはネットオークションをまったくやっていなくて、伊藤さんはいかにも大学教授らしく、評論家の立場を保っておられる。しかし、話はあまりうまく噛み合っていない。この顔ぶれ、立場的配置は絶妙なのだが、やっていない江畑さんが、どうしても無理にネットオークションに対して否定的発言をするようになっていってしまう。それを、まあまあとばかりに荒俣さんが弁護したり、説明したりするのだが、このやりとりがどうしてもわざとらしくなる。ネットオークションをやっておられない江畑さんが、想像で反対派に立つというところに歪みが生じているのだ。体験した上で、問題点を指摘し、反対派にまわるというのではない。そのため、やむを得ないことながら、トークがやらせっぽくなっていく。印象として、そのように感じてしまう。江畑さんの役割、ちょっと気の毒に思えた。4月からのレギュラー番組では、こういう違和感を抱かせないようにつくっていただきたい。トークの合間には、テーマを解説する映像、ナレーションなども適時入り、番組としては、けっこうおもしろい。興味のあるテーマの場合は、かなり期待できそうである。

 *再放送情報

「トーク3人の部屋・ネットオークションの世界」3/25 NHK衛星第1 10時〜10時45分

 2001/03/21 (Wed)

「破壊魔定光」WOWOW 毎週水曜日18時30分〜18時58分
 もう最終回である。しかし、最終回に総集編をぶっこくとは余裕であるな。もう少し作画が安定していれば、評価できるレベルになっていたのだが、これではいかんともしがたい。おまけに「2000万体の流刑体は俺がすべて回収する」とは言ってくれるぜ。1日1体のペースで55000年ほどかかることになる。「なめとんのか、われ」と、定光みたいにすごんじゃうぞ。

 2001/03/22 (Thu)

「NHKスペシャル 放送記念日特集 放送はどう変わるのか〜IT革命とデジタル放送の未来」NHK総合 19時30分〜20時45分 21時15分〜21時58分
 NHKの川口会長や、日本テレビの氏家社長といった顔ぶれでおこなわれたパネル討論会。パネルの合間に、映像とナレーションで現状等がレポートされていく。このレポートは、とてもおもしろい。しかし、パネルのほうは、相当に退屈。ときおり氏家社長がNHKなどを槍玉に挙げるのだが、興味深いのはそういうところだけという感じ。いくらあれこれと未来を語っても、未来はいま予測されている形にはほぼ間違いなく、ならない。それは、ここ数年でさんざん経験してきた。いま起きている変動はめまぐるしすぎるのだ。だから、発想や計画が、1年くらいで陳腐化し、どんどん挫折していっている。そして、べつの新機軸が顔をだしてくる。でも、それもすぐに消えていく。考えてみると、いやな時代だね。

 2001/03/23 (Fri)

「ドキュメント地球時間 ポル・ポト〜カンボジアの悲劇」NHK教育 毎週金曜日22時〜22時45分
 数百万人を虐殺した共産主義独裁者の記録である。こういうドキュメンタリーを見ていると、さまざまな思いが脳裏を去来する。前にも書いたが、「凶戦士 愛」執筆時にカンボジアと、その独裁政権によって生じた悲劇を取材したわたしは、この国の過去と行く末に多大な興味を持っている。ポル・ポトの悲劇は、それを支援してきた覇権国家中国などの圧力もあり、日本においては、いろいろな形で隠蔽されようとしてきた。ある大手新聞社の特派員が、「カンボジアで、伝えられているような虐殺はまったく起きていない」などという与太記事を送ってきたというのはとくに有名なエピソードだ。それらのいやしい情報操作が、こういう番組で確実に打ち消されていく。制作したのがフランスのプロダクションというのは、けっこう象徴的だけどね。自分たちが東南アジアで何をしてきたのかも、忘れずに番組化しておかないとだめよ。でないと、片手落ちである。

 2001/03/23 (Fri)

「Sci-Fi HARRY 最終回」テレビ朝日 毎週金曜日27時15分〜27時45分
 まったく共感も感情移入もできないキャラばかり、つぎつぎとでてくるアニメだったが、なんとか最後まで見つづけることができた。それだけまっとうな作品であったということだろう。でも、このオチはおおいに不満ね。ここまでの構成はきちんとできていたんだから、もう少しちゃんとすべてのキャラに関してかたをつけてほしかったな。顔(というか目だけ)がハリーとジノリの半分ずつってのは、やっぱへんだよ。アキューザーの説明も無理無理のこじつけにすぎないし。それと、映像。超能力ものは、映像能力の高い監督ならすごい絵をつくる絶好の素材なんだけど、それがいっさいなかった。ごくありきたりの表現ばかり。たしかに懲りすぎて意味不明の汚いCG画面だらけってやつを展開されるのよりはましかもしれないが、これだけふつうというのも、かなりさびしい。ラストで、かなり評価を下げちゃったね。自己満足はいけませんよ。

 2001/03/24 (Sat)

「無敵王トライゼノン 最終回」TBSテレビ 毎週土曜日17時30分〜18時
 ハッピーエンドの最終回。これでいいのよ、娯楽作品は。こむずかしい作品はこむずかしく終わり、おおらかな作品はおおらかに終わる。ちょっとせりふでこむずかしいところがあったけど、そこは聞き流してしまおう。でも、移住を延ばす必要はなかったんじゃないかな。あの技術力があるんだから。そのままスペースコロニーをつくればいいじゃん。そして、いずれはコロニー側と地球側とで戦争になり、また人型巨大兵器(それも白いやつ)を使っての凄絶な殺し合いがはじまるのさ。うん、続編はいくらでもつくれるぞ。ZとかZZとかVとかWとか。

 2001/03/25 (Sun)

「田原総一朗の人間発掘スペシャル!『経営の神様』松下幸之助」テレビ朝日 14時〜15時25分
 よく知られたエピソードを、再現ドラマと解説、インタビューでうまくつないでいる。松下さんくらいになると、公開されていないエピソードが存在しないんだね。で、後半の焦点が松下 vs SONYの激しい競争。販売の松下、技術のSONY。自動車の豊田と日産の構図とまるきり同じだね。自動車のほうは、一方的に豊田が日産を引き離し、圧勝しているが、家電業界は、そううまくいっていない。SONYはビデオデッキでの磋跌を本当にうまく盛り返してきた。映画ソフト産業への参入や、ゲーム機器分野でも、SONYは勝利を得た。パソコンの分野でもしかりである。が、少し前まで熱狂的といってもいいくらいSONY一辺倒だったわたしは、昨年、松下派へと完全転向した。いま、わたしの周辺からSONY製品が急速に減少している。理由はひとつ。サポートである。かつてのSONYのサポートは、手放しで絶賛できるほどすばらしかった。直轄のサポート拠点を多く有し、電話1本で、担当者が来訪して徹底的に修理の面倒をみてくれた。SONYの製品は、元取締役がテレビにでて「SONYの機械は壊れるんですよ」と断言したほどによく壊れる。わたしのビデオデッキも、何度、修理依頼したか覚えがない。それくらい壊れる。しかし、その故障の多さを補ってあまりある完璧なサポートと性能の高さがそれをカバーしていた。その直轄サービスステーションの大部分を2000年4月、SONYはとつぜん閉鎖した。最後の修理にきたソニーサービスステーション多摩の人から、その旨を知らせる通知書を手渡されたとき、わたしは訊いた「なぜ、こんなことをするのか? これで本当にいいのか?」と。担当者は答えた。「残念です」。きょう、この番組で、松下の中村邦夫新社長は「サービスの松下を堅持する」と言われた。この判断をわたしは支持する。家電は技術よりもサービスだ(いや、技術はあるレベルで必ず要るけどね。本当にないと困ってしまう)。松下製品を持っている人、ためしに修理依頼をだしてみな。びっくりするよ。古い部品がきちんと届く。修理相談にも、根気よくのってくれる。直轄サービスステーションがたくさんあった当時のSONYのサービスをしのぐ面倒見のよさである。家電は、売るときが勝負ではない。壊れたときが勝負だ。わたしは、それを実感している。がんばれ、松下。運ぶときにぎっくり腰を起こしたけど、36インチワイドテレビもPanasonicにしたぞ。

 2001/03/25 (Sun)

「学校の怪談 最終回」フジテレビ 毎週日曜日19時30分〜19時58分
 最終回ということで大盤振舞いならぬ大パンツ振舞いとなっていた。しかも、主人公のさつきちゃんだけでなく、今回はなんと美少女の桃子ちゃんまでがパンツを披露している。だが、最後の喪服のカット以外は、あまりわざとらしさがなく(いや、十分にわざとらしかったかな)、それなりの品格を保っている。そのテーマ、内容のわりには、下卑ることのなかった構成が、この作品のいちばんのよさであったといえよう。後世に残る傑作ではないけど、日曜日の夜のひとときをたしかに楽しく過ごさせてくれた。そういう価値を持つことは、作品としてひじょうに重要である。その部分を高く評価しておきたい。

 2001/03/25 (Sun)

「日曜スペシャル 最終回 ミール落下〜ロシア宇宙開発の光と影」NHK衛星第1 毎週日曜日22時〜23時
 2001年3月23日、ロシアの宇宙ステーション、ミールが15年に及ぶお勤めを終えて落下し、この世から消え去った。それを記念して、日曜スペシャルは、最終回にミールの一生を60分の映像にまとめあげ、放送した。実にうまくまとめられた、ひじょうにわかりやすいドキュメンタリーである。ロシアの宇宙開発し、アメリカとの競争、ミールの誕生、その成果、そして、落下に至るまでの経緯。すべてがきちんとわかる。ただ、共同研究時、ミールに滞在していたアメリカ人宇宙飛行士の率直なミールとロシアの宇宙開発技術に対する感想がなかったのがとても残念。ミールの情報を余さず網羅するのなら、これは欠かせなかったはずだ。入れなかった理由はおおむね想像がつくが、想像はあくまでも想像である。事実ではない。そういう瞹昧な想像を視聴者に抱かせないためにも、そういう映像、そういう談話がぜひほしかった。それ以外は、すごく満足している。いい番組だった。

 2001/03/26 (Mon)

「生中継! 第73回アカデミー賞授賞式」WOWOW 9時45分〜14時30分(再放送 同日20時30分〜24時30分)
 2001年の授賞式ということで、冒頭、いきなり「ツァラトゥストラかく語りき」が鳴り響く。画面がCGの宇宙空間を突っきり、行き着く先は国際宇宙ステーションの内部である。ステーション滞在中の宇宙飛行士が生でオープニングセレモニーに加わる。すばらしい演出だねえ。こういう発想を映画の賞の授賞式に持ちこんでしまうところに、向こうのスタッフのセンスを強く感じる。でもって、そのあと脚色賞のプレゼンターとしてアーサー・C・クラークがでてきたのには、もっと驚いた。スリランカからの衛星中継である。衛星中継のアイデアを誰が思いついたのかを鑑みれば、このシーンは本当に感慨深い。残念ながら、われわれは2001年までに月に基地を築くことができなかった。ドーナツ型の宇宙ステーションもつくれなかった。AIを搭載した(後に気が狂ってしまう)スーパーコンピュータも開発できなかった。チコ・クレーターで黒い石板を発見することもできなかった。木星まで行ける大型宇宙船も完成させられなかった。パンナムは倒産してしまった(再建したらしいけど)。しかし、それでも、2001年はめぐってきた。人類すべての夢は、映画の中に凝縮されている。賞を獲得した「グラディエーター」「グリーン・ディスティニー」「トラフィック」などの諸作品関係者に深く敬意を表する。でも、やっぱり、司会はビリー・クリスタルにやってほしかった。

 2001/03/26 (Mon)

「テイルズ オブ エターニア 最終回」WOWOW 毎週月曜日18時〜19時58分
 最終回なので、放送スケジュール帳尻合わせがおこなわれ、2話連続放送となった。で、評価だが、とてもだせるレベルの作品ではない。作画スタッフの選定も含めて、もう少しなんとかしたほうがいいよ。これは本当に資源の無駄遣いである。

 2001/03/26 (Mon)

「探検家の世紀 異境からのメッセージ (1)“自然保護の父”が見た氷河〜ミューアとアラスカ」NHK衛星第2 3/26〜29 19時30分〜20時50分
 4回シリーズの1回目。しかし、いきなり“自然保護の父”ときてしまった。ジョン・ミューアっていうのは、アラスカの氷河なんかを調べ、国立公園設立を提唱した人らしい。  しかし、氷河が消えることの、どこが異変なんだろう。さっぱりわからない。氷河なんて、しょっちゅう広がったり、小さくなったりしている。ある種の生物だけに都合のいい大きさで留まっていてくれるなんてことは金輪際ありえない。白人って本当に自分勝手で傲慢だね。かれらだけが快適に過ごせるいま現在の環境を強引に残そうと画策し、しくじっていく。あ、もちろん、わたしもそういう快適な場所、環境をわたしの生きている間だけ残したいと思っている超身勝手よ。それはぜんぜん否定しない。というか、積極的に認める。だって、わたしはそれが身勝手な考え方であることを承知しているんだもん。これが、おのれに最適化された環境をいつまでも独占したいという人間のわがままでしかないことに気がついているんだもん。ところが、自然保護を謳う連中はまるでそうじゃない。さも、自分たちが地球や他の動植物のためにいいことをしているような顔をして、自分たちだけが得をする運動をほいほいと進めている。嗤っちゃうね。かわいいのは自分だけだろ。恐竜が変化する環境に適応できずに滅び、かわりに哺乳類が台頭したような「支配種交替」を自分たちの世代では再現させたくないだけなんだろ。神の姿に似せてつくられた人間を、未来永劫、万物の霊長として生物界の頂点に君臨させておきたいだけなんだろ。正直になれよと言いたいね。人間は、正直がいちばん。素直になって、すべてを認めれば、すぐに眼前に新しい世界がひらけてくる。自分に嘘をついたり、自分をあざむいたりしちゃだめ。そういうのは、あっという間に化けの皮がはがれる。
 ところで、この番組はミューアや国立公園制定の功だけでなく、罪もちゃんとレポートしていた。原住民に要らぬ影響を与えた白人文化押しつけとかキリスト教布教に伴うお節介とか。でも、すごく手ぬるい。人類自身の身勝手さについても、番組スタッフはまったく思いあたっていない。人間は試験管の中から誰かによって生みだされたものではないという単純な事実を完全に失念している。人間は、自然の営みから生まれた、自然に属しているごくありふれた生物の一種なんだよ。それが自然の中で生きて、自然に変化を与えているのなら、それは単なる自然現象、自然の変化である。それ以外の何ものでもない。自然と人間を勝手に対立させてほしくないなあ。あ、もしかして、そう言いたがる人は、みんな試験管の中あたりで自然以外の力によってつくりだされてきた人たちなのかな。そう考えれば、辻褄が合う。そういう人は、みんなきっと自然と一体化したくないんだね。自然をねじ伏せ、自分たちの望む形でいつまでも変化できないように支配したいんだ。きっとそうに違いない。わたし、見破っちゃったよ。えらい、えらい。

 2001/03/27 (Tue)

「機巧奇傳 ヒヲウ戦記」NHK衛星第2 毎週火曜日18時30分〜19時
 いやあ、今回も爆笑ぜりふのてんこ盛りだったなあ。
 ま、それはさておき。
 先日、とりあえずの評価を書いたところ、その内容に関していくつか知人に訊かれてしまったので、追記をすることにした。
 まずは「人殺しをいやだ」と叫ぶことが偽善であるという意味をもう少し詳しく教えてほしいと言われたこと。「主人公ヒヲウはそう言い、現実に人殺しをしないようにしているのに、なぜそうなるのか」という疑問が、知人には生じたらしい。これはもちろん、勘違いである。ヒヲウは人殺しをしないようになどつとめてはいない。構成者がヒヲウに人殺しをさせないようにつとめているだけだ。ヒヲウの行動が構成者の意図的な描写で粉飾されていることに質問者は気がついていないのである。その人は、構成者の仕掛けたトリックにはまっているということだ。だまされちゃだめよ。小説でもそうだが、こんなことは簡単にできる(もちろん、わたしもやっている)。たとえば、多くの人がまわりにいる状態で、ヒヲウが操っている「ほむら」という大型からくり人形が倒れるシーンがある。このとき、そこにいあわせた人がその下敷きになって死ぬという状況はごく自然に生じる(敵、味方、第三者、誰でもいい)。この場合、そういう場所であの大型からくり人形を操ったヒヲウは、当然のこととして人殺しの当事者となる。でも、絶対に構成者はそんなシーンを書かない。書いたら、ヒヲウが人殺しになってしまうからだ。……と、ここまで読んで「え、それは事故だろ」と思った人、その判断は正しい。もちろん、これは事故である。でも、人殺しに変わりはない。現実に、ハワイ沖でそういう事例が起きている。原潜の艦長がゲストの民間人を喜ばせようとして、やる必要もない緊急浮上をおこなった。その結果として日本の教習船が沈み、多くの行方不明者をだした。この艦長は、いま人殺しとして罵られている。事故であろうとなかろうと(殺人意図の有無も関係なく)、そこに人死にという結果が生まれれば、人殺しは人殺しである。世間は、そのように扱う。ヒヲウも人を殺したくないのなら、何もせず、ただ自分が殺されてしまえばいいのである(あるいは姫と若君をさっさと渡してしまえばいい)。しかし、ヒヲウはそうしない。みずからの意志で戦いを選択し、周囲に危険を撒き散らす(*)。そして、それが危険なことではなかったかのように、構成者はストーリーをつくりあげる。ヒヲウには人殺しをさせないように画策する。その上で、また「人殺しはいやだ」と叫ばせる。結論は極めて単純だ。人殺しをしていようがいまいが、偽善は偽善なのである。それ以外の何ものでもない。

 ふたつめは、作品の構成担当者をなぜ構成者と呼び、名前をださないのかという質問である。これは単純。映像作品は、構成者ひとりでそれがつくられているわけではないからだ。映像作品の全責任を負うのは、監督である。以前、あまりにもあほらしい誤りであるため、某アニメで構成者(シナリオライター)の名前を問われるままに記したことがある。それは例外だ。通常はわたしの個人的規範に則り、名前を書かない。ただし、構成者という呼び方であっても、今回は設定・構成に関し、その担当者を対象として評価をおこなっている。理由は「その構成者が関係した作品は、常にその人が書いたとおり作品がつくられている」と、その構成者の友人が教えてくれたからだ。それが事実ならば、その責任の所在を構成者に帰しても問題はない(わたしは何度も、間違いなく本当かと念押しした。返事は「絶対にそうだ」という断言であった)。が、それでも、その構成者は当該作品の監督ではないから、個人の名前は記さない。わたしがここで問うているのは構成者の仕事のレベルであり、その人の人格ではないのだ。むろん、その人に対する好悪も無関係である。重要なのは、視聴者に呈示されている作品の質のみだ。それだけをわたしは論じている。

 付録。

 ついでだから、「子供向け」ということについても書いておこう。子供向けに意図してつくられた作品が生命尊重を高らかに謳いあげるのは当然のことである。前にも述べたように、子供はルールも倫理も知らない。よく「子供は残酷な存在である」と評論などに書かれたりするが、まさしくそういう面をその裡に有している(小学校等でいじめにあった人なんか、自明の理なんだろうな)。かれらに対し、一種の教育の意味も含めて、そのように作品を構成するのは常識である(一部の変態ホラー作家を除く)。わざわざつけ加えておく必要もないことね。もちろん、それと、作品中において「偽善」を全面に打ちだすこととはなんら関係がない。「ドラえもん」や「ポケモン」を見るだけでも、それがわかる。どちらの作品も、生命尊重は絶対の原則として貫かれている。しかし、「ドラえもん」のキャラも、「ポケモン」のキャラも、何かを守るために戦うこと自体は何も否定していないし(というか、積極的に関わっていく)、登場人物が何度も声高に「人殺しはいやだ」などと叫ぶこともない。それらのメッセージは、おとなが言わせているだけの恣意的なせりふの形ではなく、作品全体の構成要素として物語の中にきちんと折りこまれているからだ(そもそも、サトシにはそんなこと叫べっこない。スラプスティックギャグでなければ、ロケット団のふたり+ニャースは放送回数と同じくらい、サトシに殺されている)。想像してもらいたい。事あるごとに「人殺しはいやだ!」とか「人殺しは大嫌いだ!」と「ドラえもん」や「ポケモン」の中でわめきちらすのび太やサトシの姿を。それは醜悪な、作家としての工夫のかけらもない、偽善のみが目立つ未熟な構成である。ましてや「ヒヲウ」は幕末を舞台とした時代劇。「お江戸でござる(2001/03/15放送)」評でも触れたメンタリティの件もあり、問題はさらに根深い。子供向けだからということで「偽善」が看過されるということはありえないのである。
 以上、あまりにも明白で、付記するまでもないことであったが、やはり世間にはこういうことが理解できない人がいるようなので、おまけとして記しておいた。当り前のことを当り前に書いただけだから、ここは読み飛ばしてもいいよ。

 (*)  わたしはヒヲウが戦いを選択することはぜんぜん間違っていないと思っている。これは、人間として当然のことである。わたしが何か意見を書くと、すぐに反論したがる人がいる。これも、それと同じだ。人間は誰もが戦いたいのである。言葉を使う、拳を揮う、武器を用いるというように条件はさまざまに異なるが、戦いを望むことに差異はまったくない。論戦という言葉も、ちゃんと存在する。論戦を好みながら、自分だけは戦いを肯定しないとか、望まないなどと考えている人がいるらしいが、それはいうまでもなく詭弁である。反論を口にした時点で、その人は十分に好戦的なのだ。むろん、わたしはそういう人を否定しない。それでなくては、人間ではないと思っている。

 追記の追記。

 ここに書いてあることは、正論でもないし、極論でもない。単なるわたしの意見である。それを正論ととるか、極論ととるかは読み手の問題であり、わたしの問題ではない。こう書くと、前述の付録同様「なんだ。それ当り前のことじゃないか」と突っこまれてしまうかもしれないが、世の中、甘くみてはいけない。この当り前が理解できない人が、不思議なことに存在するのである。ほんとだよ。わたしが正論と思いこんで書いているなどと邪推してしまうおもしろい人が、世間にはいたりするのだ。だから、どうでもいい蛇足になってしまうんだけど、ここにきちんと書いておく。ここに書かれているのは、高千穂の個人的な意見である。無償の娯楽提供といってもいいかな。それをどうとるのかは読み手の自由である。いっさい束縛したりしない。「なるほど」とか「馬鹿なこと言っている」とか「いつもの調子だねえ」とか「再放送情報だけ便利だ」とか、好き勝手に読んでくれればいい。でも、自分の解釈をわたしの立場にすり替えるのは、やめてね。それは読者の越権行為である。わたしは、わたしがつくった場所で、ただ淡々とわたし自身の意見を述べている。それだけだ。もっとも、どう読んでいいといっても、「なんとかではあまり悲しすぎる」なんて表現を用いられることについては、ちょっと情けないなあと思っちゃうね。これはご存じのように、まともな意見が述べられないときに、相手の意見をおとしめるために使用するレトリックである。「悲しい」というのは、個人の感情であり、普遍的な評価となりうる論理的考察でないことからも、それははっきりとしている(「あっ、そう。わたしは悲しくなんかないよ」。で、終わってしまうことだもんね)。きわめてありふれた一種の常套句といってもいい。「ただ勝てばいいだけなんて、あまりにも悲しい」などと、二流、三流のレポーターがワイドショーなどでよく使っている。多くの人が、あちこちで耳にしたり、目にしたりしているんじゃないかな。反対意見があるということでわたしに直接メールしても、ただ捨てられるだけでさしたる役には立たないが(注・現実には、そういうメールがきたことは一度もない。むろん、きたら、さっさと捨てる)、それをどこかの公開の場で書き、その反論があらたなやりとりを呼んだ場合は、それなりに意味があるかもしれないとかすかに感じる。反対であろうと、賛成であろうと、わたしがやっているわたし自身の意見の開陳に、なんらかの意義が生じたと考えて歓迎する(一方通行の娯楽だから、それが生じる必要も、とくにないのだが)。ただし、そういうのも、まともな論理的意見であった場合だけね。普遍性を持たないレトリックだけの言葉であったら、それは書くのも読むのも時間の無駄である。やめたほうがよろしいのことよ。わたしは、そう思う。


 2001/03/27 (Tue)

「最遊記 最終回」テレビ東京 毎週火曜日18時30分〜19時
 また中途半端な最終回を。でも、牛魔王復活はどこへ行っちゃったのと突っこむことにならなかったのは幸いである。どうやら、どこかにはいるらしい。>牛魔王。秋葉原に行くと、制服姿の女子学生たちが声高に「悟空がねえ」とか「八戒さまが」とか歩きながら言葉を交わしている。ゲーマーズに入ったら、そこにいる客の半分くらいはそういう女の子だ(なぜ知っている?)。映画にもなるらしいし、この状況だと、そう遠くないうちに続編もありうるんじゃないかな。そのときは、絵も話も、もう少し明るい作品にしてくれ。雨や夜の場面ばかりで画面が暗いと、老眼の目では見づらくてしょうがない(トホホ)。

 2001/03/28 (Wed)

「シスター・プリンセス 前夜祭」テレビ東京 毎週水曜日24時45分〜25時15分
 へんなタイミングではじまるなあと思ったら、前夜祭である。時間的にいえば、制作が間に合わなくて、急遽入れたという感じではなさそうだけど、編成のスケジュールに狂いでも生じたのかな。前夜祭といえば、思いだすのは「鉄人28号」のそれである。記憶はおぼろだが、やっていることは、あまり当時と変わっていないような気がする。声優さんがでてきて、作画スタジオをルポして、ストーリーをざっと紹介して。いまはカラーになり、声優さんは女の子ばかり12人である。彩色はコンピュータだ。でも、技術や状況が変化しても、出来不出来を決めるのは監督とスタッフの才能である。そこに変化はない。

 2001/03/29 (Thu)

「コロッセオ 最終回」日本テレビ 毎週木曜日26時55分〜27時25分
 ええっ、終わっちゃうのぉ? というのが、率直な感想である。このあとはノアのプロレス中継になるらしいが、それよりも、こっちのほうがいいよ。ノアもやるけど、これも残すってわけにはいかないかなあ。いろんな情報をごちゃまぜにしながらも、おもしろく見せてくれる編集技法は抜群だった。格闘技総合情報番組のスタンダードになれるスタイルと内容だったのに、本当に残念だ。日テレ首脳陣に復活をお願いしたい。30分に、これだけ内容を詰めこむことができることを教えてくれただけでも、この番組はえらかったと思う。

 2001/03/30 (Fri)

「メダロット魂 最終回」テレビ東京 毎週金曜日18時〜18時30分
 前シリーズに比べて、はなはだしくパワーダウンしていた作品なので、最終回ではいいこと書けそうにないなあと思って見ていたのだが、予想したよりはずうっとうまくまとまっていた。でも、最終回のに、作画はやはりしょぼい。とくにロングの構図がだめ。これでもかという友情の押し売りは、まあ、それだけを描きたい作品なのだから、目をつぶっておこう。しかし、同じ素材でも、監督の才能差でこれほどに出来が違うということがはっきりとわかったのは、大きな収穫であった。そういう意味でのサンプルとしての価値は、きちんと認めておく。

 おまけ。

 ここを開設してから1年が過ぎた。20世紀にはじめたんだよなあ、これ。でもって、最近、表現がきついという意見をよく耳にするようになった(「最近じゃねえ。最初っからだ」という声、多数あるが無視)。息子にまで「嫌われ者になりたがっているみたいだね」と言われる始末である。いや、嫌われることについては、もう目いっぱいの位置にきているから、どうでもいい。いまさらいい子ぶっても、変化は皆無である。それよりも、そういう立場をいいことに、勝手を言い散らしていたほうが気が楽だ。世間体をはばかって、言いたい放題言えないでいる人が、世の中にはたくさんいる。そういう人たちになり代わり、わたしが忌憚も遠慮もなく、あれこれ書くってのもありじゃないかな。と言うと、かっこつけすぎね。ま、要はこういう文体、表現が身にしみついてしまっているということだ。業のようなものである。むかし、論争をあちこちで盛んにやっていたときは、もっとずるくて汚い表現・手法を山のように使っていた。議論や論争は勝ってなんぼだからね。いまはもうそういうことはやらない。誘われても、断る。でも、その残滓は文章のそこかしこに漂っている。これについては、それが消えたら高千穂が高千穂ではなくなってしまうとでも思っていただきたい。うーん、またかっこつけすぎちゃったかな。ごめん。

 *再放送情報

「日曜スペシャル ミール落下〜ロシア宇宙開発の光と影」4/1 NHK衛星第1 24時25分〜25時25分
「NHKスペシャル 下請けではあきまへん〜東大阪 ITにかける町工場」4/3 NHK総合 24時15分〜25時5分
「地球に乾杯 インド大ラクダ市〜タール砂漠の1万頭(短縮版)」4/4 NHK総合 23時〜23時50分

 2001/03/31 (Sat)

「土曜シアター 醍醐寺の声明」NHK衛星第2 14時30分〜16時55分
 醍醐寺といえば、修験道当山派の本山である。本来は真言宗醍醐派の寺だが、修験道本山派の京都聖護院などと並んで、山伏との結びつきが強い。そして、声明(しょうみょう)とは、山伏、修験道の行者が山中において唱えるお経のことだ。番組冒頭に、そういったことに関する平明な解説が入っている。今回はその声明が国立劇場で演じられ、中継録画が放送された。感じとしては、グレゴリオ聖歌の公演に近い。しばらく聴いていると、心地よい眠けに全身が包まれていくところも、よく似ている。しかし、こういうのをよく2時間半にもわたってオンエアしたね。さすがはNHKである。驚いて、ついつい見てしまった。しかも、書棚から「行者秘帳」と「修驗道護摩祈祷法」を取りだしてきて、「法螺貝の心得」なんかも読み返してしまったよ。

 2001/03/31 (Sat)

「ハンター×ハンター 最終回」フジテレビ 毎週土曜日18時30分〜19時
 これも、すっきりしない最終回である。原作は読んでいないけど、TBSテレビ「ランク王国」の漫画新刊ランキングで紹介されていた原作の最新刊のラストあたりがこの部分になっているみたいだから、アニメが原作に追いついて終わってしまうケースだと思うのだが、すさまじく中途半端……というか、何もかもほっぽりだしているよね、これ。アニメだけ見ているぶんには、え、旅団はクラピカに復讐しないの? とか、ヒソカはボスに挑戦しないの? とか、ゲームはどうした? とか、ゴンの親父はどこだ? とか、でぶのおたく兄貴は何をしている? とか、視聴者は疑問だらけになってしまう。こういうところが原作ものの弱点ということだ。アニメと原作では、見せ方も、表現方法も、情報を客に渡すタイミングも異なっているのに、設定や内容は、いま連載がつづいている原作の範囲内に縛られてしまう。アニメでは、それ以上のものが絶対に使えない。この先を知りたければ、あるは入りきらなかった部分を見たければ、漫画に移ってくれと言いたいのかな。それとも、原作がまた溜まったら、放送を再開してくれるってことかな(そういう噂があるってことは知っている)。でも、スポンサー紹介テロップをかぶせた最後の1カットはけっこう興味深かった。「娘の能力さえあれば、お金はいくらでも取り戻せる」なんて父親が独白するシーンをなぜかじっくりと流していたから、そうなっているんじゃないかと予想していたんだけど、あれは、娘の予言能力を旅団のボスが奪って、自分の本の中に封じこめたって意味だと思う。だとしたら、すごくいい感じ。娘の父親が今後抱くあろう絶望感などが想像できるし(これは描く必要がない。視聴者個人のイマジネーションに委ねるもの)、予言能力を得た旅団のボスはさらに力を増していく(これは描いてくれないと、つらい。これこそがストーリーに発展をもたらしてくれる設定だから)ということを示してもいる。作品として、とても意味のあるカットだ。うーん、原作ではどのように表現されているんだろう。たしかめたくなってしまった。わたしの場合、映像を見てこういう気分を持つことはほぼ絶無だから、本当に貴重な1カットである。やっぱり原作の素性がいいんだね。3月31日深夜に放送された「ランク王国」のおかげで、携帯電話を見つめるヒソカのせりふが漫画とアニメでは違っているらしいことがわかった。アニメのほうは、もろに説明ぜりふである。こういう細部のアレンジをひとつひとつチェックしてみたいなあ。放送再開。まじに実現させてよ。>フジテレビさん。

 2001/03/31 (Sat)

「NHKスペシャル 星明かりの秘境 カラコルム〜山岳写真家 藤田弘基の世界」NHK総合 21時〜21時50分
 白川義員さんもそうだけど、山岳カメラマンって本当に業が深いね。撮影するためなら、平然と無理に無理を重ねる。といっても、今回の人は山岳星空カメラマンである。山に登り、そこから星空を撮影する(山も被写体にすることがあるという感じ)。もちろん、そこらあたりの山に登って撮るわけではない。ヒマラヤの高峰、標高4000メート以上の稜線上や高原でカメラをセットする。もう還暦を過ぎているのに、そのパワーは半端じゃない。星空ひとつ撮るのに、よくぞそこまでという執念を見せる。荒天の中、10日近くもテントにこもって、シャッターチャンスを待つ。本当にすごいね。できあがった写真の美しさもすごいけど。派手な部分の少ない、どちらかといえば環境ビデオ的な地味な番組だったが、真剣に見入ってしまった。

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